梅ヶ島温泉の歴史
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梅ヶ島温泉は、今から約1700年ほど昔、応神天皇の御代(270年)に木こりによって発見されたと伝えられています。が、湯治場としてよく知られるようになったのは、武田信玄の時代です。
梅ヶ島温泉は、現在は静岡市になっていますが、戦国時代は武田家の領地で、甲斐の国に属していました。温泉の下流2キロには「日影沢」という武田家の御用金山があり、その金山の利権を巡って、武田氏と今川氏が安倍峠を挟んで、長く勢力争いが行われていたようです。
信玄公が金山巡視の折に、この地の温泉を大変好まれ、その後は、合戦で傷ついた侍や病に苦しむ人々を救う療養所のような役割を果たし、古くから湯治場として栄えてきました。いわゆる信玄の隠し湯の一つです。
戦国時代に、神経痛や創傷に効く湯治場として既に有名だったため、江戸時代の世になってからは、駿河の奥座敷として駿府からはもちろんのこと、日蓮宗総本山久遠寺からも近いこともあって、安倍峠を越えて身延方面からの湯治客も多くなりました。古文書による温泉の湯治客記録から著名な歴史上人物を拾うと、徳川家康公や秀忠公、勝海舟、清水次郎長、乃木希典などの名前が見られます。
昭和に入ってからは、歌人の吉井勇が梅薫楼に長逗留し、43首の「梅ヶ島遊草」を詠んだり、脚本家の茂木草介がNHK大河ドラマ「太閤記」を長期滞在の末書き上げたり、といったいわば文豪たちに愛された静寂の温泉宿として文化人や政治家たちに愛されました。
高度経済成長時代の「温泉旅行」=「団体で一泊し宴会すること」というイメージが定着してしまったいわゆる温泉ブームとは常に一線を画して、派手な宣伝や団体客の誘致などの活動を行わなかった結果、大規模な開発からは取り残されましたが、それがかえって周りの豊かな自然環境の保護につながり、今や秘湯の中の秘湯と注目を浴びるようになってきました。
今でも、毎日細々とお年寄りやリハビリ目的の湯治客を大切にして、皆様に愛され続けて現在に至っています。

昭和ラプソディ

与謝野鉄幹の「明星」に歌を発表し、北原白秋と並んで注目を浴びたロマン的作風の孤高の歌人、吉井勇は、昭和14年の夏に梅ヶ島に長期滞在をしています。来遊のえにしは、5代目の梅薫楼の館主、手塚忠告が、吉井勇の主宰する「可美古(かみこ)会」の同人であったことによります。いたくこの湯宿と環境に魅せられた勇は、自分の閑居「迷悟庵」の名をそのまま自室につけ、「梅ヶ島遊草」に収めた和歌43首を梅薫楼でつくりました。
・あめつちの大きこころにしたしむと駿河の山の湯どころに来し
・駿河路の安倍川上の湯を浴めばこころおのづと澄みにけらずや
・湯のにほいしめやかにして道いつか緑いや濃き山峡に入る
・うれしくもわれ来しものか山ふかく流砂の金の湯に浴むため     (抜粋)
吉井勇先生(左より2番目)と当館館主(右端)     昭和初期の送客風景

平和を愛し、刹那的詩人で耽美派だった吉井勇も、キナ臭い軍靴の音の響く時代の趨勢には抗しきれず、不本意ながらも時の権力者によって軍歌を作詞させられたりします。
そんな時代なので、当梅薫楼も、戦時下は大日本帝国陸軍病院の分院として接収され、将校たちの療養所として、一時期傷病兵の湯治に使われていました。日本の国土の多くが焦土と化した暗い時代の歴史の一コマです。
      戦時下の梅薫楼    温泉療養していた少尉の日記
     昭和30年代の梅薫楼(今のご年配の方には懐かしい光景です。)
梅ヶ島温泉の伝説
金の湯伝説 霊泉伝説
駿河は、その昔「珠流河」(するが)と書きました。これは金鉱の発掘によって砂金の流れる河という意味から名づけられました。その後、天武天皇の時「駿河」と改められたそうです。皆さんよくご存知の「あべかわ餅」は、金をもじって「金な粉餅」(きなこもち)として安倍川流域の人々が食べていたのを、徳川家康公が「安倍川餅」と命名したものです。
それほど有名で産出量も多かった金鉱も、ある時洪水の土砂で埋まってしまいました。ところが、崩れた山の麓から温泉が湧き出しました。金水麗水といって、湯の色は黄色で、味は甘く、香りは良く、この湯に入れば、肌の艶がよくなり、体全体が温まり、万病に効き寿命が延びる、との評判が立ち、「金湯」と呼ばれるようになりました。また、家康公の「諸人の病気を治すこと不思議なほどの効果ある。」とのお墨付きも賜りました。
むかし、後水尾天皇の第八皇子である良純親王が、甲州で療養中、駿河の安倍奥に霊湯あり、との夢のお告げを受けました。そこで安倍峠を越えて疲れた足を引きずってやっと頂上に近い逆川のほとりまで来たときでした。3匹の赤い小蛇が出て来て、親王の足元を回りました。小蛇たちが何やら道案内をする様子です。小蛇に導かれた親王が、道なき道を更に西へ進むと、温泉が見つかりました。そこに入湯したところ、3日で痛みが去り、10日程もするとさしもの難病もとうとう全快しました。
親王は、「あの蛇は御仏の仮の姿であったのか」と、その慈悲に深く感謝して、小さな社を建て、所持していた備前長船の刀、紺紙金字の願経と水晶八房の数珠を捧げました。
この温泉が、現在の梅ヶ島温泉で、大権現社もこの地にあり、親王の捧げた八房の数珠は、前屋号「永寿軒」時代に下賜され、梅薫楼に引き継がれました。
平犯科帳と梅ヶ島温泉 梅ヶ島弁財天(弁天)
もちろん小説なので創作ですが、昭和30年、池波正太郎先生来湯の後、ほどなくして書かれた鬼平犯科帳の「雨乞い庄右衛門の章」に、大泥棒雨乞い庄右衛門の長期潜伏先の舞台として取り上げられました。
江戸時代にあっても道なき道を分け入った人知れずの山奥の秘湯、湯治場として一部の人には有名だったわけです。
鬼平犯科帳研究家でもある塗り絵師の西尾忠久氏も、小説の足跡を辿って、最近梅薫楼を訪ねて下さいました。
「庄右衛門が、約3年の間、湯治につとめていた場所は、駿府から安倍川沿いに北へ15里ほどのところにある梅ヶ島の温泉だ。切り立った山肌と深い渓流にかこまれた岩の間から、こんこんとわき出る温泉は万病に効くといわれている。しかし、なんといっても山深いところゆえ、山小屋のような旅籠が1つあるだけで、そのようなところへ、大盗・雨乞いの庄右衛門ともあろうものが、よくも3年の間、凝と息をこらし、辛抱をしていたものだ。」  (雨乞い庄右衛門より)
相模の国の江ノ島神社の弁天様は全国的に有名ですが、ここの梅ヶ島弁天は、その妹君です。

昭和20年に米軍の陵辱と災禍を避けようと神主と氏子一同によって、御神体を2つに分けて奉納され直していたところ、その後、GHQにより御身の安全が保障されたので、姉君はそのまま江ノ島に残りましたが、妹君の興しいれ先については、当時の氏子総代の恵比寿屋旅館が当梅薫楼の親戚であった縁で、山の神としてこの安倍奥に招聘することとなりました。お輿賜った後は、、川のせせらぎと風音を琵琶に奏でる梅ヶ島温泉の守り神となりました。芸能や音楽はもちろん、七福神内唯一の女神として、審美や美肌の神としても信仰を集め、「美女づくりの湯」として美肌効果のあるこの温泉を守ってくれています。